平安時代の末、鳥羽上皇の時代の康治2年、藤原氏の一族の貝川三位長乗というひとが、一族36人をひきいて都から来て、この地に開発の鍬を打ち込みました。長乗さんたちは、山あいの原野のシイやクヌギ、ブナや雑木を切り倒し、根を掘り起こし雑草を刈って土地を耕しました。ため池を作り、田んぼに水をひき、稲や麦や野菜を育てました。36人の家来たちも村人と力を合せ、いっしょうけんめい開墾に励みました。原野であったところが美しい田畑に変わり、人々は収穫を喜びあいました。
田の神をまつり、農耕に流す汗によって収穫も増え、人々の暮しも豊かになって来ました。長乗さんは、村人たちの信望をえて、ますます開墾に力を入れ続けました。この開墾地は、いつしか木代庄(きしろのしょう)とよばれるようになり、長乗さんは村人から「三位さん」とたたえられるようになりました。
貝川三位長乗は、亡くなった後、切畑大円のクワン坂の上のケイレン丘陵に葬られましたが、この塚には、長乗さんと一緒に、長乗さんが開発の時に使った金の鍬が埋められるていると伝えられています。
今から1600年あまり前のお話です。
神功(じんぐう)皇后が三韓を征し、皇太子(のちの応神天皇)とともに凱陣された時、皇太子の異母兄にあたる香阪(かこさか)、忍熊(おしくま)の二王子が、むほんのたくらみをもって、神功皇后と皇太子の軍を迎え撃つ計画を立てました。香阪、忍熊の二人の王子は、まずこの戦の成功と失敗を占おうとして、能勢の山中で狩りを催されました。ところがそのとき突如としておそいかかった大猪のため、香阪王は死去され、この計画は失敗に終わってしまいました。
のちになり、天皇となった応神天皇は、猪のため危難を免れたことを思い出され、毎年亥の日の天皇・皇后のめしあがりものとして、いのこ餅を献上するよう木代、切畑、大円の三村にみことのりをだされました。
これがいのこ餅献進の起こりと言い伝えられております。
12月末に、子供たちが「いのこ餅」の歌を歌いながら各家庭を回って、五穀豊穣、家内安全等を祈る。終わるとお菓子、お小遣いがもらえ、お正月のお年玉になり子供達にとってはこれが楽しみです。