豊能町には史跡や石造物がいたるところに存在しており、それらの文化財を保護し、後世に伝えていくために、民話を題材にした「とよの歴史音絵巻」を開催した契機に平成20年10月に教育委員会が「豊能の民話」を刊行しました。その題材に基づいて今後シリーズで掲載する予定です。今回は「法性寺の影ひき地蔵さん」(切畑地区)と「てんぐの松」(吉川地区)の2ケ所の民話です。
法性寺(ほっしょうじ)の影ひき地蔵さん(切畑):
影ひき地蔵とか金ひき地蔵とか言われる法性寺のお地蔵さんは、昔は今のお寺から五百メートルくらい上の、南月見山の頂上におまつりしていました。山の上からはるか西南の方には、尼崎の海も見えます。ある日のこと、尼崎から漁師たちがやってきて「漁をしようとしても、お地蔵さんから光がさして魚が逃げてしまいます。お地蔵さんをもっと下におろしてください。」と頼みました。そこで村の人たちはお地蔵さんを、お寺の真上の中谷山までお移ししました。
しばらくすると、また漁師がやってきて、「まだお地蔵さんが光って困ります。もっとおろしてください。」と頼むので、今のところへお移ししました。
すると尼崎ではたくさんの魚がとれるようになり、漁師さんたちはお地蔵さんを下ろしてもらったお礼に、切畑・中の西へ運上を持ってくるようになりました。
お地蔵さんは、今も檜の影で、昔ままのおおらかな美しいお姿で、静かに立ち続けておられます。(運上金:ここではお礼のお金の意味)
この地蔵石仏は、大阪府指定の文化財、正和三年(1314)建立。材質は石英閃緑岩(硬くて白く美しい石で、豊能町のブランド石です)
石風呂:法性寺の境内にある。大阪府の有形文化財。製作は鎌倉時代と推定。
使用目的は定説がないが、元来は潔斎(法会・写経・神事などの前に、酒肉の飲食その他の行為を慎み、沐浴などして心身を清めること)のために用いられ、後に庶民の健康増進や厄病除災のための薬湯(薬剤や薬用植物を入れた浴用の湯)として利用されたのではないかと考えられる。
切畑字風呂→小字才脇垣内→法性寺境内石段下と移動、現在鐘楼脇に安置されている。
清岳寺法性寺 日蓮宗 総本山は身延山久遠寺:
当山はもと中谷寺日光寺と称する禅寺(曹洞宗)であった。
創建は嘉永18年(1641)、能勢頼光公の五男頼永公(切畑領主)の内室が逝去され、その菩提を弔う為に西野村芝の下一宇に建立し、妙忠山法性寺と号す。日然上人を開基とし、京都本願寺の末寺となる。
慶安3年(1650)日運上人が芝の下から現在の所に移転した。
てんぐの松(小判の松)(吉川地区):
むかしむかし、吉川の東の山に、「てんぐの松」と呼ばれたそれはそれは大きな松の木があったそうです。その松の木は、とても大きく、村中どこからでも見えていました。
むかし、子供たちは、おやじさんについてよく山へ行ったそうで、てんぐの松のある東の山へも、しばしば行ったと言います。下草をはらったり、小枝を落として薪を作ったりと、とてもよく働きました。
そんな時、村人がてんぐの松のある東の山へ近づいていくと、「ドンドコドン、ドンドコドン」と太鼓を打つ音が聞こえてきます。
ところが、太鼓の音につられて、山の奥へ奥へと入り、てんぐの松のほん近くまで行くと、その音は急に止むそうです。
こんなことが幾度も幾度もくりかえされ、村人たちは、あれはきっとてんぐさんのしわざで、人が山へ入っていくと太鼓を鳴らし、てんぐの松に近づくと、太鼓をたたくのをやめるのであろうと言うようになりました。
でも、太鼓の音を聞いた村人はたくさんいましたが、てんぐさんの姿を見た人は、誰ひとりいなかったそうです。このてんぐの松は、根が三つに分かれていて、形が小判に似ていたことから、小判の松ともいわれていました。
*この文章・絵の一部は豊能町教育委員会発行「豊能の民話」より
7 comments
はじめまして。
私たちは、生演奏つき影絵劇を制作し、町内外で公演しています。
豊能町民話も少しずつ制作しているのですが、ちょうど、この2つの民話も取り上げているので、嬉しくなりました!
「てんぐの松」は、吉川小学校での自主公演で上演させていただき、Yoshimiさんが素敵な記事を残してくださっています♪
https://toyonono-portal.jp/archives/1233
ありがとうございます。公演があれば是非見に行かせてください。私は観ボラの会員で、会員の女性のガイドにガイドの中に民話を入れるよう言っています。
今後ともよろしくお願いします。
ありがとうございます。
今年度は民話以外の演目を上演する予定ですが、またお声かけさせていただきます。
こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします。
44ときわさん、
十数年前の「豊能の民話」を取り上げてくださって、ありがとうございます。
グループで、豊能町の民話を分担して、現場に行って挿絵を描いたのが懐かしいです。
もっともっと、豊能町の昔話が、町民にもいきわたるといいですね。
大変ご苦労があったと思います。絵が上手ですね。私の知り合いに書いてもらった絵と一緒に使用させて頂いています。私は観光ボランティアガイドの会の会員で、ガイドの時には民話を女性会員が読むようにしています。図書館で我が会が座学を開催しています。3月にこの民話のDVDを作りまして発表する予定でしたが延期になりました。秋には開催できると思いますので、豊能町の広報に掲載されます。良ければ参加してください。
2007年9月ユーベルホールで開催された『とよの歴史音絵巻』に、(2525MIYAKOさん同様)手作り絵本グループ『パステル』のメンバーの1人として、民話の挿絵で参加させていただきました。とても懐かしく思い出されます。
当時、私は、豊能町の民話については、ほどんと知らなかったので、とても新鮮で勉強になりました。
『豊能町の民話』を読み返してみると、『法性寺の影ひき地蔵さん(切畑)』と、『石清水の観音さん(川尻)』って、伝わっている土地と、お地蔵さん・観音さんの違いはあれど、お話はよく似ているのですね。その昔、何があったんでしょう♪
民話って、素敵ですね!
昨年、尼崎の海から光明山、鴻応山近辺が見えるかを検証しました。今は高い建物が建っていていて見にくい箇所も有りましたが、昔は遮るものがなかったので、
これらの山は十分見えたと思います。
どちらの石仏も材質が石英閃緑岩(せきえいせんりょくがん)(御影石)を使っているので、表面は白く、非常にきれいな石です。特に月夜の日などは光が当たり輝いていたのではないかと思います。満月の日などは特に魚は獲れません。尼崎の漁師は何が光っているのか、興味があったのではかと推測します。