ミツマタの群生がほぼ満開です
能勢電妙見口から東南の方向、約3km、徒歩で約1時間のところに群生地が有ります。10数本のミツマタがほぼ満開状態です。何故ここに多くのミツマタ(光ケ谷にはもう一か所、初谷渓谷にもある)があるのは、むかし、吉川地区の人が、和紙の原料として育て、相当多くの量を出荷して(吉川村史に掲載)生計を立てていた名残りです。
枝が3本伸びるからミツマタの名がある。1月中旬に、筒状の白いガクが出て来て(3月初旬に木全体が真っ白になる)、それから、先端が4つに茶褐色に裂ける。
エドヒガンザクラ(名称:源治丸桜)。トンボ池から約50mほど北側に行くと、エドヒガンザクラの群生地がある。この木は(樹齢不明)大変大きく(高さは10~15m)ピンク色で、今は8分咲きぐらいです。
トンボ池:昔はトンボが多く飛び交っていたが、その後は荒れ地になり、3~4年前からボランティアの方達により整備され、今年あたりは多くのトンボが見られることでしょう。このトンボ池周辺に種、樹木等を植えられる時には、必ずボランティアの方に連絡してください。
行き方:妙見口駅から初谷川方面に進み、初谷橋を過ぎ、しばらくすると左、初谷渓谷、右、天台山方面の道標があります。右の天台山方面に行ってください。吉川峠を登り、しばらくするとこの三叉路に来ます。右方向に下りてください。
150mぐらいの所を左に入って下さい。スギ、ヒノキ、クヌギ、エノキ、コナラ等の樹木林の中を進んで下さい。途中、エドヒガンザクラが所々に咲いています。早い木は新芽の緑が出ています。
トンボ池:ここはトンボ池との分岐点で左がトンボ池、その奥がエドヒガンザクラの群生地です。ここを真っすぐ右に進んでください。10分ほどでミツマタの群生地に行けます。
源満仲が多田院を開いた天禄元年(970)、その3年後の天延元年(973)8月24日、藤原仲光が源満仲の弟満政の息子「源治丸」を養子に迎え、光ケ谷・ミツヤ(吉川)に住んでいる。井戸城は残念ながら、この城が有ったという痕跡はほとんど残っていなが、吉川の豪族・藤原仲光がその居城と
して建てた能勢地方で一番古い山城である。源氏の本拠地多田院の北の砦
(出城)でもあった。その後天正元年(1573)塩川軍に包囲され落城した。
すぐ下の橋の名前が「城之下橋」です。
この井戸城は現在私有地になっていますので、決して入らないで下さい。
美女丸・幸寿丸事件
藤原仲光が主君源満仲の子、美女御前を連れて満仲のもとへ参上します。満仲は美女が中山寺で学問をせず、武芸ばかりしているので腹を立てていた。満仲は美女が経を読めないのをみて怒り、斬り殺そうとします。仲光が制してその場は収まりましたが、満仲は美女を討つようにと命じます。仲光の子である幸寿が自分が美女の身代りになると言い出します。仲光は深く思い悩むも、決心をして我が子の首を打ち、仲光は美女を討ったことを報告し、出家をしたいと訴えます。そこえ恵心僧都が美女を伴って満仲の館を訪れます。恵心は仲光が美女の代わりに幸寿を討ったことを告げ、美女の助命を願い出ます。満仲は美女を責めますが、恵心の言葉によって美女を許し、酒宴となります。恵心に乞われて仲光は舞を舞います。やがて恵心は美女を連れて寺に戻り、仲光は涙を流しつつ見送りました。(銕仙会・能と狂言より)
遺骨は小童寺(川西市畝野)、胴体は昌林寺(西宮市)に、斬った刀は歌垣(能勢町)に、現物の刀は京都大学が保存。伝承があります。
1 comment
わあい!「44ときわ」さん、ひょっとしたら、昨日ニアミスしていたかもですね\(^o^)/
妙見口駅からの行き方がとてもよくわかります。吉川峠ってどこのことだろう・・・と思っていました。
『光ヶ谷』が地名で、たぶんその中に『ヤシキ谷』という俗称があるのですね。歴史ある地名のようで、びっくりしました。
勉強になります。ありがとうございました(#^.^#)