「東京別院」、正式名称「妙見山別院」のこと
もう20年ほど前に読んだ一冊の本のせいで、いつか東京に行くことがあったら、必ず立ち寄りたいところがあった。その場所は「東京別院」、正式名称を「妙見山別院」といい、東京の下町、墨田区本所にある小さな日蓮宗の寺院だ。そこは、名前のとおり私たちにとても馴染み深いあの能勢妙見山の、全国にもたった一か所しかない別院なのだ。
数年前に出張で東京へ行くことになった。同僚を巻き込んで忙しい仕事のスケジュールの合間に大急ぎでタクシーまで利用して、初めてそこを訪れることができた時、30メートルほど手前でタクシーを降りて、ずっと憧れていたその場所にゆっくり近づいていった。後ろのスカイツリーとの対比が際立つ。こうした憧れの場所に実際に行ってみると、あまりにも当たり前に、それもいささかちっぽけなほどに存在しているのを目の当たりにして、一瞬、夢と現実の狭間にいるような奇妙な感覚に陥ってしまうものだ。
ずっと行きたかったのは、ただ単に妙見山の別院だったからではない。そこは、幕末のある有名な父子のエピソードで知られているところだったからだ。有名といってもそれは決して父ではない。むしろ子の方だ。
子・勝麟太郎
子の名前は、勝麟太郎、後に勝海舟という名で、日本の歴史の大きな転換期に登場する英傑が顕彰されているのだ。この幕末の英傑には、貧しい少年時代から、幕閣となった時代、維新後に至るまで、そのエピソードに枚挙のいとまがない。中でも貧しい少年時代のエピソードが特に胸に迫る。
年末に餅をもらった帰り、転んで落とした餅を、悲しくなって両国橋の上から投げ捨てたことや、夕方から明け方まで毎日、神社の境内で一人剣術の稽古に明け暮れ、直心影流の免許皆伝の腕前になったこと、高価なオランダ語の辞書「ヅーフハルマ」を2冊書写し、1冊は自分のために、もう1冊は売ったことなどはとても有名だ。
もう一つ大きなエピソードがある。麟太郎少年が野良犬に噛まれて生死の境をさまよった時、父は毎晩、能勢妙見の別院で水垢離をして、回復を祈ったというエピソードがこの場所にあるのだ。このエピソードだけを聞くと素晴らしい父のように見える。だが、それは少し違う。
父・勝小吉
父の名は勝小吉。直参旗本ではあるものの最下層の御家人で、終生無役だったが、子どもの頃からの無頼、放蕩、破天荒、ケンカ大好き、相手がいなくなるほど道場破りをし、江戸で一番の男谷道場の男谷精一郎をして「あいつにはかなわぬ」と言わしめるほどの剣の腕だが、働かないから家は貧しいまま。3歳の麟太郎に家督を譲り、隠居しようとするも、父に「少しは働け」と言われ、働こうと求職活動もするのだが続かないのだ。でも、江戸の町ではなぜか人気のある人物だった。
先のエピソードにしても、傷口の縫合に医者が震えるので、刀を抜いて麟太郎の枕元に突き立てて医者の震えを止め、泣くばかりの家族を叱り飛ばす、その後はずっと抱いて寝て、70日目に床を離れることができるまで、他の者に触らせなかったというから、この無頼の男の、子を思う気持ちと行動が全く尋常でない。
自伝「夢酔独言」
──おれほどの馬鹿な者は世の中にもあんまり有るまいとおもふ。故に孫やひこのために、はなしてきかせるが、能(よく)ゝ不法もの、馬鹿者のいましめにするがいゝぜ。──
20年ほど前に読んだ一冊の本というのが、この不敵な書き出しで始まる勝小吉の自伝「夢酔独言」だったのだ。このトヨノノポータルでこれを書きたいと思ったのは、ただ「妙見山別院」に父子の情愛あふれるエピソードがあったからだけではない。これはすでにとても有名な話だ。
妙見山の参詣
「夢酔独言」にもう一つ書かれていることがある。小吉自身が後年、妙見山に参詣していてそれを書いている件だ。そのいきさつが小吉らしい。地主の金策のために知行地であった御願塚村(現在の伊丹市御願塚)を訪れ、金の取り立てを終えた後、池田から能勢妙見を参詣したことを書いているのだ。歴史上の人物をとても身近で等身大の存在に感じる瞬間はこうした時だ。歴史的な場所、建造物などの現地を直接訪れた時もそうだが、自分がよく知っている場所のことが書かれているものをふいに読んだ時など、歴史の時間軸を遠く超えて急に身近な存在に思えてくる。
勝小吉が独特な江戸っ子の語り口で、子孫への戒めとして自伝を書いたことで、幕末から明治にかけての日本の大転換期に大きな役割を果たした勝海舟という大きな存在がどのようにして出来上がったかを、海舟自身の回顧録「氷川清話」とともに補強し、裏打ちする結果になった。確かに、この父があったからあの海舟になったように思えるほど、「夢酔独言」は清冽な印象を読む者に残す。
貧しい無役の御家人で、破天荒だが子煩悩の父の心情とはどんなものか。
そんな父を思いながら懸命に剣と学問で身を立てようとする子の心情とはどんなものか。
こうした父子の心情の深さに改めて打たれ、山のほうを眺めると、今日も妙見山が遠くに見えている。
「夢酔独言」は町立図書館にも所蔵されています。
・「夢酔独言」東洋文庫
・「日本の名著32 勝海舟 中央公論社」に所収