牧地区は豊能町の一番北側に位置します。豊能町で一番高い山の鴻応山(写真:678.9m)があり、この山の北側は京都府亀岡市で、冬には積雪が有りますが、大変美味しいお米(キヌヒカリ)が収穫される地区です。牧地区は寺田地区と一緒に、大阪府への合併希望を潜在意識として常にありました。町村合併促進法の施行になり表面化して、京都府亀岡市誕生にも極力反対したが、諸般の情勢上昭和30年1月1日亀岡市西別院町牧となった。その後大阪府への合併実施に努力し、遂に昭和33年4月1日(1958)に宿願の大阪府豊能郡東能勢村牧となりました。
太歳神社の表参道:入り口には町の木であり、豊能町の保護樹木第二号に指定されている二本の「杉」が天高くそびえ立っている。いずれも幹の周りが約4m、樹高20m以上、樹齢300年言われています。
太歳神社(おおとしじんじゃ):昭和63年に神社の大改修が行われた時、天井裏から5枚の棟札が発見された。最も古いのものは永仁4年(1269)、あとの4枚は17世紀後半から19世紀半ばのもの。資料が余り残されていないため創建の詳細は不明だが、発見された棟札により1296年には神社が存在したことが分かる。16世紀後半から領主長沢采女以下代々の領主により、修理・再建されている。能勢地方の神社仏閣は16世紀末(天正14年12月 1586)織田信長の軍勢によって焼き尽くされ、現存のものはその後に再建されたものである。 祭神;素戔嗚尊、大巳貴尊、櫛稲田姫命、建物;本殿は三間社流造(正面の柱が」4本建っている)
梅相院(ばいそういん):山号・寺号は正式には八王山梅相院長福寺(当初八王山長福寺)。浄土宗の寺院。追善のためにその子長沢采女(うねめ)こと長沢福松により長沢氏の菩提寺として長福寺が建立された。その後梅相院に寺号が改められたのは(八王山梅相院)江戸中期である。当地領主、旗本前田安芸守(豊臣五奉行の一人、前田玄以の子孫)の時に将軍家に若君が誕生し、御名を長福丸とされた。寺の名前が将軍家と同じ名前ではまずいと、幼くして亡くした我が子の法名(梅相院殿好勝より)を梅相院とした。この時より前田玄以以降の前田家先祖代々の位牌を預かり、今も保管されている。明智光秀配下の丹波笑路城(松尾城ともいう)長沢山城守の菩提寺。山門は四方正面で、何処から見ても正面に見える独特な門。この山門の建築様式は薬医門(やくい)と云い、入口に本柱2本、内側に控え柱2本計4本の柱で屋根を支える構造になっている。入り口側の柱の方がやや太いのは、屋根の重心が入り口側にあり重さを支えなければならないため。本来は公家や武家屋敷の正門などに用いられたが、扉をなくして医家の門として用いられたのでこの名前がある。一説には、矢の攻撃を食い止める”矢喰い”からきたとも言われています。
古民家からの田園風景:以前、牧地区の某邸の古民家にお邪魔させて頂きました時の写真です。はっきりした建立時期は不明ですが、江戸時代に建立された家で、阪神淡路大震災の時に傾いたらしいですが、自力で元通りになおされました。時々、多くの人が集まりパーティーを開かれて様です。落ち着いた、田舎らしい牧歌的な風景を眺めていますと、全てを忘れてしまいそうな処です。この前の田んぼの畔には、今は少なくなりました「彼岸花」が咲いています。
彼岸花(ヒガンバナ科):古い時代に中国から帰化した多年草。花後に葉が出て来て冬を越し、春の終わりごろに葉が枯れ、開花時には葉がない。地下に卵形の鱗茎があり、リコリンという強い毒物を含むので、田んぼの畔に咲かすのは、モグラが田んぼに侵入しないために植えた様である。