高山城と向山城のほぼ中間に当たるこの辺りに高山氏の館があったと言われる。右近は、幼少期、少年期の約10年間をここで過ごした。
この碑は平成10年(1998年)に建立されたものである。
豊能町高山は、450年くらい前(戦国時代末期)、キリシタン大名として有名な高山右近の生まれたところです。その高山近辺には、キリシタンがたくさんいたと伝えられています。
高山右近は、戦国時代の武将でカトリックの信仰を貫き、江戸時代の初め1614年、徳川家康のキリシタン禁教令によって国外に追放されたキリシタン大名です。右近は、1552年(天文21年)、摂津能勢の高山(現豊能町高山)に生まれ、父高山飛騨の守ダリオの影響で11歳(12歳説あり)の時、大和国沢城でキリシタンの洗礼を受けました。洗礼名はジュスト。織田信長、豊臣秀吉などに仕えるとともに、所領の摂津高槻などで、キリスト教の布教を保護し、キリシタン大名のリーダー格でありました。幼名は、彦五郎、名は長房・重友または友祥(ともなが)で、右近は呼び名であったといいます。等伯・南坊とも号しています。
- 高山右近は、21歳の時、父飛騨の守ダリオの隠退により、二万石の摂津高槻城主となりました。摂津高槻で飛騨の守ダリオ・右近父子は、キリスト教の布教につとめ、天正二年(1574)に高槻天主教会堂を建立しました。ルイス・フロイスの「日本史」よれば、大きな木造の会堂と宣教師の宿舎、池を設けた美しい庭園を備え、一角に大きな十字架も建てられたと言います。熱心なキリシタンであった高山右近ジュストは、この教会を拠点に高槻領内へのキリスト布教に力を注ぎました。天正九年(1581)ころには領民二万五千人の七割以上の一万八千人がキリシタンとなり、領内に二十以上の教会があったと言います。
その後、天正十三年(1585)に、右近は六万石の明石城主となります。しかし、九州出兵直後の1587年(天正15)、キリシタン禁令を発令した秀吉から「領地をとるか、信仰をとるか」と迫られ、「信仰を貫く」としたため所領を没収され、加賀藩前田家におあずけの身となりました。さらに江戸時代に入りキリシタン弾圧が強まる中、家康のキリスト教禁教令で、1614年にフィリッピンのマニラに国外追放となり、当地で亡くなりました。
1563年(永禄6)に来日したポルトガルの宣教師ルイス・フロイスの「日本史」によれば、当時高山の地にはヴィレラ神父やロレンソ修道士も訪れ、ヴィレラ神父により「聖ジアン」と名付けられた高山の小聖堂(オラトリオ)でミサ聖祭がおこなわれ、右近の祖母ジョアンはじめ多くのキリシタンが祈りを捧げていました。
現在でも豊能町高山には、高山氏の居城であった高山城跡を始め、隠れキリシタンの墓と伝えられている「北中マリヤの墓」や「高山高札場の地蔵」などのキリシタン関連遺物が残されています。
マリヤの墓:二組の夫婦の墓ではないかと言われている。三基の中央の墓に延享3年(1746)尼妙念、少し離れた1基に寛延4年(1751)尼妙寿と刻まれている。
高札場地蔵:中央に安置されている地蔵像の下部に変形クルス紋の先端部と見られる図柄があることで、キリシタン遺物と考えられている。