書き出しをどうしようか迷った。
はっきりいって、豊能町は今注目されている。住環境の良さが。
この文章が何年後まで読まれているのかわからないが、この記事を書いている今現在。COVID-19の騒動がいまだどういう方向に収束を見せるのか誰もさっぱり予想できない時点で、どういう暮らし方があるのか、どういう働き方があるのか、どういう生き方に舵を向けるべきなのか考えた時に、豊能町で暮らすという選択肢が誰の頭にも浮かんでくることは、間違っていない。
豊能町のよさは、このサイトでもたくさん語られているし移住を考えている人にとってはすでに調べているだろうからこの記事では書かない。読み手の中ですでに知っているものとして話を進める。
素人ながらもレポーターとして地域情報の発信をするようになって、町のありかたとかそういうことに以前より興味をもつようになった。ように思う。
自分が住んでいる町がニュータウンだからか、とくにニュータウンの今後のありようについて書かれた記事や動画は優先的に見るようになった。
そこで気がついたことがある。
住環境を便利さだけで語りすぎ問題
本題に入る前に少し遠回りをしよう。
近年で急速に発達してきた情報技術や化学産業。つぎつぎにアップデートされる便利さの質を追いかけるように、私たちは今あるものと次に来るものが良いものであると思う訓練を行ってきた。意識する、しないにかかわらず。そして常に価値観を更新することを是としてきた。
そんななかでも、われわれの生活基盤は場所と切り離せない以上、人間が生きていくにあたって土地というものは非常に重要な役割を占める。
住みやすい土地か。安全な土地か。優しい人が多い土地か。長く住める土地であるか。原始的な安全の確保から文化的な生活の向上まで、住環境における土地の役割は非常に大きい。今さら誰がいうまでもなく。
だから人気のある土地は高値で売れる。安い値段では手放したくない人と高い値段を出してでも欲しい人のバランスがとれるから。これも今さら特別言うほどのことはない。
今、豊能町の土地は安い。隠しようがないほどに。不動産ほど、安く市場に出ているものに手を出しにくい商品は存在しない。なぜなら、価値に対して安い不動産は買って売ったら絶対儲かるから。プロの手に渡った時点で、そういう土地は一般に知られることなく売買される。つまりそれができないで市場に出されている土地っていうのは、誤解を恐れずに言えばどんなに安くてもプロが手をつけない商品ということになる。つまり安い土地にはクセがある。というとわかりやすいだろうか。そして豊能町の土地は今安い。公然の事実として。
だが、面白いことに人間には多様性という能力が備わっていて、大多数が絶対に損すると思っているものから価値を生み出してしまうパターンがある。株式市場などは、買う人がいるから売れるのであるし、売る人がいるから買う人がいる。持ってたら損をすると思う人がいるのと持ってたら得をすると思う人が常にいるから動いている。株式に限らず経済はほとんどこの釣り合いで動いている。もちろん不動産も。
ということはどういうことか。ほとんどの人は買ったら絶対損するとわかっているから目に見えて安い土地として売られているのに、ある種の人はここは絶対に価値があると思って行動しているということになる。
経済活動にとって都合がいいからという理由で、不動産の売買では便利さのスペックに頼りすぎているところがある。もちろん、高額商品を売り買いする時に何かわかりやすいパラメーターは必要だ。そして便利さというのは数値化しやすかったんだろうしわかりやすい。だた、ものごとには常に側面があるのだ。
円柱を側面から見て円形としてのスペックだけを語っても、方形としてのスペックを語っても本質は見えてこない。
しかもこれは“売買に使われるパラメーター”だ。売買によって得られる経済効果、つまり儲かったお金は暮らしの水準に大きく影響するから、暮らしと無関係とは言わないけど、でも売買に使われるパラメーターと暮らしの水準は少し違う。これは念頭に入れておいたほうがいい。
こうは考えられないだろうか。豊能町は人口が減少しているのではなく、新しい価値を生み出そうとしているのである。と。
住環境を便利さだけで語りすぎ問題
見出しがループしてしまった。言いたいことを言おう。
人口減少にあえぐニュータウンを取り扱うとき、とくにネット上の文章や動画に多い傾向がみられるのだが、“こんな不便なところにニュータウンを作っちゃった”という論調がある。少し嘲笑気味に。
その意見は概ねこうである。バブルの頃に開発を約束されて高値で買ってしまった、バブルがはじけてどうしようもなくなった、不便さだけが残り住民たちは苦しんでいる、といった感じだ。どれも版を押したように意見が同じなので、おそらくWikipediaのニュータウン系の記事から引っ張ってきているのだろうと思う。特に取材をしたとか実体験をともなったわけでもない手軽に嘲笑してるだけの意見が目立った。
ただ、私は、上記のような意見に対して概ねそうなんだろうと思う。特に間違っているとは思えない。ただ、これもやはり側面だけを語っていると思う。
四国の田舎から広島の郊外や大阪の大都会までの暮らしを経験した私が感じるぶんには、ここでの暮らしは圧倒的に暮らしやすい。確かに便利ではないがそれだけなのだ。価値は自分たちで生み出せばいい。暮らしの中で便利だけが価値の全てではないことをいつも思い知らされる。それも嬉しい驚きをともなって。
こんなエピソードがある。
町に景観のいい棚田がある。地域では草刈りに困っていたので、子育て世代の若者数世帯で集まって自発的に草刈りを手伝った。
綺麗になった棚田で地元の人たちを交えてバーベキューを催した。
自宅で作った菊炭や、自家製の麦茶を持ち寄っていただいた。
どれも街中では超がつくほどの高級品だ。
別にバーベキューで菊炭が出たから豊かになったと言いたいわけではない。
毎日がこういった驚きの連続で、私たちが知らなかった価値が動いている。みんなふだんのことなので特に発信もしない。でも価値は必ず生まれてくる。
たぶんなんだけど、ネットで強い言葉を使ってバズったとか、そういうプロモーションはそろそろ限界に来ていて、みんなが知ってることや共感を膨らませるのはもう難しいんじゃないかと思う。結局のところ、ひとりひとりがどう感じたのか、どう動いたのか、何を生んだのか、そういうことを親しい人たちでリンクしあって、みんなが自分だけの物語を紡いでいくことが求められるのではないかな、そんなふうにも思う。
結局のところ住みやすいかを決めるのは自分
不便不便と言われる豊能町。その豊能町にここまで外の人たちの目が向いたことって近年なかったことのように思う。そもそも知名度が圧倒的に足らなかったか(町の名前言っても誰も知らないことがあらかじめわかってるので、「能勢のほう」って言うのは町民あるある)、知ってても不便とか地味とかネガティブな印象でしか紹介してもらえなかった、ことが多かった。
それがここにきてぐっと注目を浴びるようになり、いち住民としてはとてもうれしい。COVID-19のなかでの注目なので素直に喜んでいいものか、仮に心の中までは枷をつけられないので素直に喜んだとしてもそれを臆面もなく世間に表明していいいものかどうかは配慮の余地があるとは思うが、ここまでを世間体ワンセットの文章として追記した上でもこの町での暮らしが多くの人にとって価値がありそうに思われるようになったことに対する喜びは本物である。
一緒に住むならお年寄りや子供に優しくしてくれる人、遊びに来るならゴミを持ち帰ってくれる人、これができる人ならいち住民としていつでも大歓迎。まずは興味を持ってもらえたらうれしい。便利さだけでは語れない暮らしを好むわたしたちに。