高山に最初に住み着いたのは、天平神護(じんご)元年(765)に開成皇子が勝尾寺に入山した時に、一緒に来た19人の従者といわれている。鎌倉時代から室町時代にかけて、高山荘の支配争いが勝尾寺と浄土寺門跡(總持寺)との間で長く続いている。高山の地名が見られるのは貞観5年(863)の文書に「高山」とあるのが最初です。長禄3年(1459)浄土寺の代官として高山入道という人物が登場します。高山氏は在地領主として高山を支配するようになり高山右近の父飛騨守は本拠地として力を蓄えます。天文21年(1552)右近(幼名彦五郎)は飛騨守の長男として高山に生まれます。永禄6年(1563)、家族と共に洗礼を受け父はダリオ、母はマリヤ、右近はジュスト(ユスト)の洗礼名を授けられる。高山地区は明ケ田尾山(619m)、石堂ケ岡(680m)、戸知山(625m)などの山々に囲まれた標高450mの小盆地です。高山に至る旧道は険しい坂があり、生活環境等の厳しさが想像できます。高山地区は昭和30年4月15日、清溪村(現茨木市)から住民の強い要望により旧東能勢村(現豊能町)に分離編入された。令和4年4月末で世帯数69軒、人口134人(男68人、女66人)です。広大な棚田を始め高山右近の面影を思い出しながら、歴史、自然が多くある町でゆっくりと晩秋の散策されてみては如何でしょうか。10月15日(土)10時~19時40分、棚田周辺を中心に「高山右近フェスタ」が開催されます。従来の棚田の畔のキャンドルナイトの他に、今年は次世代のエンターテイメントのドローンショウが加わります。ぜひ、お出かけ下さい。お問合せ先:ukonk22@gmail.com
駐車場有。
高山地区マップ:新名神止々呂美ICよりR423北に金石橋(約3.5km)右折、JR亀岡駅よりR423南に金石橋(約16km)左折、金石橋より約2.5㎞で高山地区に入ります。
⓵棚田:色鮮やかな黄金色の実りの秋(9月)。棚田の真ん中に川が流れていて、両サイドの田に水が流れ込むようにしています。綺麗な水により美味しい米が収穫されています。
農薬。化学肥料の使用を大阪府内の慣行的な栽培方法に比べて5割以上減らして栽培している。
コメの品種は「キヌヒカリ」です。コメの花(白色)が咲いたときの珍しい写真で、午前中だけ咲きます。
雪の棚田
棚田の夜明け
⓶住吉神社:祭神は三筒男大神(表筒男命・中筒男命・底筒男命)。創建の年代は不詳である。社殿は寛永9年(1532)に造営され、元禄14年(1701)の棟札に牛頭天王社(インドの祇園精舎の守護、神厄除けの神)。神社は明和年間(1764~1772)に焼失し、その後改築された。明治2年(1869)の神仏分離令により、ご神体の薬師瑠璃光如来は高山の光明寺に預けられ、住吉大社から住吉大神を勧請し、社号を住吉神社に改めた。住吉神社は海上の守護神でなく、五穀豊穣の農耕神として勧請されたものであり、高山地区の家々が氏子で有ります。
⓷オヒョウ:住吉神社の敷地内にはウラジロカシ、カエデ、スギ、ヒノキ、オヒョウは豊能町の保護樹林に指定されています。神社の裏手に自生するこの「オヒョウ」はニレ科の落葉樹で北国の山地に自生し、アイヌの人々はこの樹皮の繊維でアッツウシという布を織ると言います。このオヒョウの木は平成13年(2001)2月に大阪府の指定文化財(天然記念物)に指定されている。指定された時には2本あったが1本は枯れてしまいました。
⓸高山コミティーセンター(右近の郷):2005年小学校を廃校にして、そのあとコミニュティーとして利用されています。後ろの高い山は戸知山。
⓹高山右近夫婦像:右近没後400年を記念して2015年5月31日に建立された。全国に右近像は15体あり、夫婦石像としては、この像造この一体のみであります。住吉神社の鎮守の森にあった石英閃緑岩で造られています。
⓺マリヤの墓:4基の墓があり、2組の夫妻の墓ではないかと言われている。3基の中央の墓に延享3年(1746)尼妙念、後ろの1基に寛永4年(1751)尼妙寿と刻まれています。隠れキリシタンの墓といわれ、近くの北中家(昔は中姓)が代々墓守をされており、かっては北中マリヤの墓と言われていました。なお、この丘全体がお墓で、中氏から出た高山右近の母マリヤの墓であるという説もあります。
3基の後ろにこの1基があります。
⓻光明寺:浄土真宗本願寺派。開成皇子が十一観音を奉納し奥の院として草案したとの伝承があります。1232年親鸞聖人が逗留した時に、住職の乗意が弟子となり、光明寺の寺名を受け真言宗から浄土真宗に帰依したとの伝承があります。石山合戦(1570.9~1580.9、浄土宗本願寺派と織田信長の戦い)の時、顕如上人がこの寺に逃れてきたとの伝承があります。
本尊:阿弥陀如来
親鸞聖人像:長く保管されていたのを、開けて見てびっくりで、この造像がありました。貴重な文化財です。
⓼西方寺:浄土真宗大谷派。応永20年(1413)に高山大夫が浄土真宗に帰依して俗道場をおこし、その玄孫正頼が知眼と号し俗道場を改め西連寺とした。宝暦4年(1754)に西方寺として改称された。現在の本堂は文化7年(1810)に再建された。永禄6年(1563)に洗礼を受けた高山右近の父高山飛騨守ダリオは、翌年修道士ロレンソを伴い高山を訪れ、右近の祖母に洗礼を受けさせる。祖母はジョアンの洗礼名を、それまで門徒として持っていた寺をオラトリオ(小聖堂)に改め、ヴィレラ神父も訪れミサを奉げています。祖母は高山を離れることなくこの地で亡くなったと言われています。宣教師ルイス・フロイス「セント・ジアン(自庵)」と呼ばれたオラトリオの跡ではないかと言われいます。
本尊:阿弥陀如来
梵鐘は第二次世界大戦の時に供出され、昭和30年にあらたに鋳造されました。
⓽高山右近生誕の碑:この碑は1998年に建立されました。このまわりに高山氏の館があったと言われています。右近は幼年期・幼少期を約10年間過ごしたといわれています。このまわりには、城に縁のある「御所垣内」「侍所垣内」「弓場」「馬場垣内」「的場」の地名があります。
この碑の前で時々、キリスト教徒の方々がお祈りに来られます。(伊丹教会の教徒の方々)
⓾高札場:高札場は今で言う街角にある掲示板の様なものです。大きく違うところは、その発行元がお上(幕府や領主)であることです。お上が決めた法度や掟書き等を庶民に周知徹底するために作られたものが高札場です。起源は1230年前・奈良時代の後期、延暦元年(782)にさかのぼり、特に江戸時代にはその全盛で6万を超え、全国の村々に広くあったようです。ここに揚げられている高札は明治維新後も新政府は引き続きキリシタン禁止令をとり、慶応4年3月(1868年9月、明治元年)に邪宗門禁止の高札でありますが、この高札により長崎・浦上のキリシタン3300人余を流罪に処したと伝えられています。高札の内容としては「道徳」「切支丹」「火付」「駄賃」「毒薬」「報酬」等の内容が多く書かれていたらしいです。高札は明治7年(1874)に廃止が決定され、2年後には完全に撤去されました。現在残っているものは殆どありません。「高山の高札場」は昭和52年に改修されたものですが、当時の構造がそのまま残されている貴重な遺構です。(この高札はレプリカですが、当時のものは資料館に保管されています)横に置かれている石が力石です。力石は慶長17年(1612)より、庶民の間に元服制度が出来、男子が16歳になれば元服料を納めていました。この制度は昭和の初めごろまで続いていたそうです。14貫目(52.5㎏)の石を肩に担がれないものは一人前の男子として認めてもらえないということです。つまりこの力石はその男子の試力計として用いられたのです。
中央に安置されている、地蔵像の下部に変形クルス(赤線)紋の先端部とみられる図柄があり、キリシタン遺物と考えられる。高山地区は高山右近の出身地と言うことで、幕府の取り締まりは特に厳重でこのようなものはほとんど残っていません。