高山右近はここ高山地区で、天文21年(1552)高山飛騨守の長男として生まれる。幼名は彦五郎で、生誕については色々な場所の説がありますが、摂津・高山が通説になっています。飛騨守の祖先は高山の実力者で、戦国時代の下剋上に乗じ、永禄2年(1559)、三好長慶に属する松永久秀の配下になり、大和・宇陀の城主になる。飛騨守は洗礼名はダリオで、翌年沢城にロレンス修道士を招き、彦五郎(右近の幼名)は家臣150名と洗礼を受ける。母はマリア、彦五郎はジュスト(ユスト)の洗礼名を受ける。その後キリシタン大名として一生貫きました。永禄10年(1567)に沢城は攻められ高山に撤退する。永禄12年(1569)和田惟政の配下に入り、芥川城(高槻のとなり)を預かる。元亀4年(1573)惟政の死後、飛騨守・右近親子は惟政の長男惟長を追放し、飛騨の守は高槻城主になる。その後、飛騨守は右近に譲り、右近は城主になる。天正2年(1574)右近が22歳の時、余野城城主黒田氏の娘14歳のジュスタ(ユスタ)と結婚する。ジュスタの名は記録には見当たらない。天正10年(1582)の本能寺の変の時には右近は秀吉側につき、功績をあげ、小牧・長久手の戦いその他の戦いにも戦功をあげ、家康は右近の力量を高く評価している。天正15年(1587)、九州征伐に参戦後の6月19日に秀吉が伴天連追放令を発令したが、右近は信仰を貫き領地を没収され、追放される。小西行長に同行し、小豆島、肥後で匿する。その後、右近は加賀の前田利家に招かれ、小田原攻め等に参戦し、利家亡きあとも利長に仕え、関ヶ原、大聖寺攻め等に参戦する。慶長19年(1614)、家康がキリシタン禁止令を発令し、右近は妻、娘、孫たちと共にマニラに追放される。しかし、長旅の疲れで到着後40日あまりの元和元年(1615)2月3日熱病の為63歳で亡くなり、マニラで盛大な葬儀が行われる。
右近没後400年にあたる平成27年(2015)日本カトリック中央協議会は「高山右近は、地位を捨てて信仰を貫いた殉教者である」として「福者」に認定する様ローマ教皇庁に申請し、認められる。列福式は平成29年(2017)2月7日に大阪城ホールで内外から一万人以上の参列者の中で盛大に執り行われました。
宇陀城跡(奈良県宇陀市)正面の山。高山家が城主になっていました城址に先日行って来ました。以前は整備されていなかったのですが、高さ約470mの山に整備された道があり、600m歩いて天守閣跡まで登って来ました。
天守閣跡:360度、宇陀市街が見渡す事が出来ます。流石、城を建てるのに適した山だと感じました。飛騨守、右近はここでどのような政治をしていたのか、戦国時代ですので、常に緊張感があったのではないでしょうか、興味がある所です。
本郷の瀧桜(又兵衛桜):宇陀市本郷区には、戦国武将として活躍した後藤又兵衛がこの地に落ちのび、僧侶となり一生を終えたと言う伝説が残っているようです。この枝垂桜が、後藤家の屋敷跡にあることから地元では、”又兵衛桜”と呼ばれています。樹齢は300年ぐらいではないかとの説があるようです。幹周り3m、高さ13mに立派な桜です。多くの見物客で、駐車場に入るのに40分ぐらいかかりました。奈良県では5番目に人気のある「桜」のようです。また、豊能町の銘酒「右近」は豊能町で作られたお米「キヌヒカリ」を原料に、ここ宇陀市にあります芳村酒造が醸造しています。