写真は法輪寺(真言宗・川尻地区)の境内よりの初日の出
我が町の古刹・神社の地図。豊能町には歴史のある寺院が各地区に1ケ所以上全部で13ケ所あり、寺院の宗派は真言宗、浄土宗、浄土真宗、日蓮宗、曹洞宗です。神社は5ケ所有ります。各寺院・神社は住職・神主はじめ檀家さんが何年も守っておられます。年末・年始に日頃のお礼・これからの目標をお祈りに、寺院・神社巡りに行かれては如何でしょうか。豊能町のお寺の本堂にはどのお寺も立派な仏様が祀ってあります、拝まさせて頂いたら如何でしょうか。歓迎して頂けると思います。
高代寺(真言宗御室派)本堂、吉川地区:平安時代(810年頃)に空海が草庵を結んだことに始まる。960年に清和源氏の祖、父源経基公の三回忌にあたり、その菩提を弔うため源満仲(多田院を開く)が大伽藍を建立する。初代住職は京都の仁和寺の寛空僧正。海抜約480mにあり、妙見口駅より北へ100mぐらい所を左に、参道の道標があります。1時間ぐらいで登れます。
本尊、薬師如来:火災に遭い、首から下が焼失し、鎌倉時代に補修されている。平成5年豊能町教育委員会が調査している。衆生(一切の生物、一切の人物や動物)病苦を救う、病を治す薬を与える医薬の仏として如来には珍しく現世ご利益信仰を集める。
図書館より望む雪化粧の高代寺山
吉川八幡神社(祭神:応神天皇)吉川地区:源満仲の4代の源頼仲が1065年~1069年に建立され、吉川地区の氏神様。もともと、高代寺が支配していましが、明治初期の神仏分離令により高代寺から独立した。町の保護樹林のシ(ツブライジイ)があり、樹齢400年と推測される。妙見口駅より北へ約20~30分。
考鬮寺(こうきゅうじ)(浄土宗・知恩院派)吉川地区:16世紀後半建立、当時は高代寺支配下の真言宗の寺院でした。17世紀中ごろ、修理再建し、寺名も考鬮寺と改名した。17世紀後半高代寺住職と吉川村檀家信徒が争い、吉川村の檀家信徒が高代寺を離脱し、真言宗から浄土宗に改宗した。新花折れ街道沿いにあります。秋のイチョウの黄葉がきれい。
本尊は阿弥陀如来立像。
西方寺(浄土真宗本願寺派)本尊は阿弥陀如来像。吉川地区:6世紀前半に(1536年)吉川光ケ谷(長尾峠の水タンクがあるあたり)にで創建された。7世紀初頭に火災により焼失し、その後再建され現在の場所に至るが、江戸末期(1852年)吉川地区の全焼したが、すぐに再建された。幕末から明治6年までの10年間寺子屋を開設していた。習字、算術、そろばん、読み書きを教えていた。明治7年吉川小学校の開設で寺子屋は終了した。妙見口駅より南に300mの場所に有ります。
住吉神社(高山地区):祭神は三筒男大神(表筒男命、中筒男命、底筒男命)。高山地区の氏神様。創建の年代は不詳であるが、社殿は寛永9年(1632)に造営され、元禄14年(1701)の棟札に牛頭天王社(インドの祇園精舎の守護神で厄除けの神様)の記載がある。明治2年深部分離令により、神体の薬師瑠璃光如来はは高山の光明寺に預けられ、住吉大社から住吉大神を勧請し、社号を住吉神社に改名した。神社の樹林は豊能町の保護樹林に指定されている。その中にの「オヒョウ(ニレ科)」は天然記念物であります。右近夫婦像は保護樹林の中にあった立派な石英閃緑岩を使用して造られた。
光明寺(浄土真宗本願寺派)本尊は阿弥陀如来(高山地区):開成皇子が756年勝尾寺を開山した。自作の十一面観音を安置して、紫雲山光明院と称して、勝尾寺の奥の院として草庵した。その後1232年(貞永年間)に親鸞聖人より浄土真宗に改める。
鎌倉時代に製作された親鸞聖人の座像、豊能町の文化財に指定されています。普段は見れません。
西方寺(浄土真宗大谷派)本尊:阿弥陀如来(高山地区):応永20年(1413)西連寺と称し、宝暦4年(1754)西方寺として改称した。現在本堂は文化7年(1810)に再建された。永禄6年(1563)高山右近の父・高山飛騨守ダリオは修道士ロレンソを伴い、高山に来て、右近の祖母に受け、ジョアンの洗礼名を受ける。その後この寺をオラトリオ(小聖堂)と改め、ヴィレラ神父も訪れミサを捧げている。住職は常駐していません。
走落神社神社(木代地区):明治40年に旧東能勢村の十社の神社を合併して一社としたものです。氏子の区域は余野、木代、川尻、切畑野間口で、氏子はおよそ400戸です。もともと切畑地区にあり889年に藤原氏が創設したといわれ、延喜式神名帳に掲載された式内社である。延喜式は平安時代に中期延喜5年(905)、後醍醐天皇の命により編纂された律令の施行細則で、神明帳は神社の名前、祭神、社格など記載した神社の一覧表のことである。
朝川寺(曹洞宗)木代地区:朝川寺の前身は大円寺は、616年に聖徳太子が建立されたと伝えられている。朝川寺開山由来は、室町時代、15世紀後半(応仁・文明の時代)石清水八幡宮別当善法寺家が資材・土地を提供し、大円寺を現在の所に移し、朝川寺と改名した。明治39年不慮の大火で山門以外伽藍全部は全焼したが、多くの寺院関係者、檀家の寄付等により大正3年復興しました。本尊は華厳釈迦牟尼仏。
朝川寺の見事な境内の紅葉
法輪寺(真言宗)川尻地区:宝暦年間(1751~1763)の火災により、寺歴は不明だが、お寺の秘仏、出世大黒殿(60年に一度開帳する)は、弘法大師の作と言われていますが、勝尾寺(箕面市)の開基「開成皇子」が草庵を結んだのがお寺の始まりだと言われいる。
宝冠阿弥陀如来
遊仙寺(浄土宗西山光明寺派)余野地区:伝承によりますと寛永13年(1636)に山城国乙訓郡光明寺より真空上人が建立したと言われています。もとは「余野十三仏」のある辺りに湧泉寺と称す真言宗の寺があり、真言宗であったが浄土宗に改宗し、寺号を遊仙寺と改めて現在の場所に移転しました。山門は薬医門作りで、境内には、余野地区内の無縁の石塔、石碑等を集めた寄せ墓がある。
本尊は阿弥陀如来、観音菩薩と勢至菩薩を脇侍に従えています。
法性寺(日蓮宗)切畑地区:京都日蓮宗本山広布山本満寺十三世日乾聖人と一門により能勢領内に法華宗が流布された時、慶長十一年(1606)「題目講」が作られていました。境内にある「石風呂」は、製作は鎌倉時代と推定され、大阪府の有形文化財に指定されています。
本尊は釈迦牟尼仏
本尊:阿弥陀如来、左:蓮如上人、右:親鸞聖人
浄光寺(浄土真宗東本願寺派):元真言宗で正保4年(1647)僧道裕の創立。天和3年(1683)5月裕玄代に至り真宗に転じる。主尊は阿弥陀如来。
太歳神社(牧地区):祭神は素戔嗚尊・大巳貴尊・奇稲田姫命。牧地区は昭和33年以前は京都府桑田郡牧村(現在の京都府亀岡市)であったため、明治の神社合併合祀には参加していない。創建は、資料があまりなく、昭和63年の大改修が行われた時に、棟札が5枚発見された。その中に永仁4年(1269)ありました。16世紀後半から領主長沢采女以下代々修理・再建されている。入り口にある鳥居の両サイドには豊能町の保護樹である、20m以上ある杉がそびえ立っている。神主は常駐していません。
梅相院(浄土宗)牧地区:長沢福松により長澤氏の菩提寺として長福寺として建立された。その後将軍家に若君が誕生し、御名が長福丸としたので、同じ名前ではまずいので梅相院と改名した。当地領主、旗本前田安芸守は豊臣五奉行の一人で前田玄以の子孫である。山門は立派な薬医門。境内には宝篋印塔、五輪塔他多くの石塔群があります。その中で、江戸時代に念仏行脚し、独特な字体による名号碑を残した徳本上人の碑もあります。
大歳神社(寺田地区):創建は嘉祥3年(850)。祭神は稲田姫命、大巳貴命、大山咋命。境内には湯立神事の時に使用する竈がある。神主は常駐していません。
青峰寺(曹洞宗)寺田地区。住職は常駐していません。
青峰寺(曹洞宗)本堂。寺田地区:創建は正應4年(1291)宗観和尚。昭和54年に再建された。寺院秘蔵所によれば、嘉祥3年(850)義顕上人が開宗とあります。上人が従者と山麓行った時、はるか頂上に紫雲がたなびき、コウノトリ2羽が飛来して来て、山頂に下りたり舞い上がったりしていた。その山頂に行くと、2寸3分の金の仏様がおられましたので、上人はその仏様(薬師尊像)を自ら彫刻し、その体内に仏像を納め、山名・寺号を鴻応山青峰寺とされ、お薬師を祈念されたとあります。