多尊仏について:
生前に自らの法事を修めて死後の極楽往生を願うという逆修(予修)信仰は平安時代から盛んになったが、室町時代末期に世が乱れ、人々は現世に絶望して死後の極楽往生を願うようになった。豊能町東地区には逆修講造立の多尊石仏や摩崖仏が多く、信仰心が根強く、阿弥陀如来を彫った特徴的な、我が町のブランド石である石英閃緑岩を使用した石像仏が各地区に造立されている。
7基あるのは(その他箕面市に2基、茨木市に1基)珍しく、全て永禄・天正年間に集中していて、国内でも多尊仏があるのは我が町だけである。約450年もずっと見守ってくれていて、永禄8年(1580)以降、造立されていないので世の中が落ち着いたかも知れないが、その2年後、永禄10年6月2日(1582)早朝に戦国時代最大の謎、明智光秀による織田信長に対しての謀反をおこし、襲撃した本能寺の変の事件が起こっている。
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室町末期にあたる永禄7年(1564)の造立で土地の人からは「余野十三仏」と呼ばれている。表裏2面に各20本の仏像が刻まれ、表面上半部の三尊は、主尊が錫杖を持ち、両脇侍は合掌の地蔵菩薩立像である。下半部には上段9体、下段8体、計17体の地蔵立像が並んでいる。裏面にも同じ三尊像が刻まれ、両脇侍は地蔵の合掌立像であるが、主尊は宝冠をつけ何仏か定かでない。下半部には上段8体、下段9体、計17体の地蔵菩薩らしき立像が刻まれている。刻銘は「本願道清 永禄七年二月時将」とあり道清が本願となって同行多数の後世安楽を願って建立したものであろう。当初、この場所より北側200mぐらいの田んぼの中に埋もれていたものを、時期は不明だが、この場所に移設する。
当地に多くある石英閃緑岩の自然石上段に阿弥陀三尊立像が、下段に三段地蔵坐像が16体彫られている。主尊の阿弥陀像は来迎印を結び、向かって左側の勢至菩薩は体を右に向けている。右側の観音菩薩は蓮台を手にして右を向いている。左から勢至、阿弥陀、観音と斜めに並んでいる。これは来迎三尊の形式で、西方浄土より阿弥陀仏が両脇侍を従えて往生する人を迎えに来られる形式を表したものと考えられる。
刻銘は、「為□□天正元年」「八月十五日」とあり、天正元年(1573)の造立である。なお、不明の□□の二字は「逆修」であろう。
左から勢至菩薩、阿弥陀如来、観音菩薩と斜めに並んでいる。豊能町には多尊仏が7基あるが、この形式はこの多尊石仏だけである。
旧余野街道沿いにある。「たぬきやぶ」の名の由来はこの辺りはタヌキが多く棲みついていたかららしい。
この多尊石仏は,説明にあるように長い間石仏とわからず、長く橋代わりに利用していたそうです。地元の方が石仏と分かり、今はお祀りされ、守っておられる。上部が欠けているのが残念です。
25軒の講の方々が造立されたと思われますが、3基の五輪塔が彫られているのは、造立中に3軒の方が亡くなられたと思われる。石仏は見事にバランスよく彫られ、おそらくプロの石工が作ったと思われる。造立二年後に本能寺の変が起こった。
2019年2月に読売TVのかんさい情報ネットtenでの若一調査隊(若一光司、黒木千晶アナウンサー)で紹介された。
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