11月3日(火・祝)、豊能町立ユーベルホール(東ときわ台1-2-5)で、昼の部・夜の部、2回公演で開催されます。我が町の高山地区で生誕した、歴史上、キリシタン大名として活躍した「福者・高山右近」の生涯を朗読と合唱で綴る史実にもとずいたミュ-ジカルです。多数の御来場をお待ちしています。主催は高山右近顕彰会・実行委員会、後援は豊能町・豊能町教育委員会。
高山右近は生涯をキリシタン大名として活躍しました。ポルトガル語も理解し、茶人としても千利休の七哲の一人で、武将としても優秀で数多くの戦いに参加し活躍しています。また、築城家でもあり数々の城を作っています。その城の一つであります、明石市にあります船上城(ふなげじょう)を紹介いたします。
右近は天正13年(1585)四国攻めの論功行賞により、秀吉より明石6万石を与えられる。明石市の海の近くに船上城を築く。現在は本丸跡と水路になっているお堀が残っています。この城を築城する前に、別所吉親(三木城主の一族)が拠って林ノ城を、右近が整備、拡充したとも言われています。江戸時代中頃まで古城下流の密蔵院裏に船着き場があったと言われて、明石海峡の速い潮流から船を守るために港を内陸部に設けています。当時秀吉による南蛮貿易が盛んであり、港や船は特に重要視されていました。秀吉は大型船2隻を右近に与えていました。これにより右近に対しての信頼の厚さがうかがえます。城の北東部の武家屋敷・寺町地区と南西部の町屋地区に分けられていました。町屋地区の北西部、宝蔵寺と西端の浄蓮寺を結ぶ道(高砂道)には、かぎ型に折れ曲がる所が多くあり、敵の攻撃に備えた城下町の特徴があります。右近は城下に新しく教会を建てたり、寺院を教会に転用するなどしてキリスト教の布教に努めました。天正15年(1587)6月秀吉が発した「バテレン追放令」により、領地没収の上、明石を追放されました。その後、この城は秀吉の直轄領となりますが、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で勝利した徳川家康方の池田輝政が播磨(姫路)へ入り、その一族である池田出羽守由之が明石に配置された。その後元和6年(1620)明石新城(現在の明石公園)の完成により、船上城は廃城となりました。
宝蔵寺(真言宗):明石市林2丁目。当時、高山右近が寺院を教会に転用した寺。船上城近くにあるお寺で、マリヤ観音の十字架が伝わっており、高山右近がキリストを布教した教徒がキリスト禁教令時でも拝礼の為、壁に埋め込んだものと言われています。
神應寺(真言宗):明石市林。当時、この寺も右近が教会に転用しました。
織田家長屋門:当初、船上城にあったものを、現在、明石公園の前に移築しています。建築は江戸時代初期のもので、門の止め金は室町後期の様式を伝えている。